2021-06-09 第204回国会 両院 国家基本政策委員会合同審査会 第1号
興奮したオランダの役員の人たちがヘーシンクに抱き付いてくるのを制して、敗者である神永選手に対して敬意を払ったあの瞬間というのは、私はずっと忘れることができなかったんです。そうしたことを子供たちにもやはり見てほしい。 さらに、当時、パラリンピックが、初めてパラリンピックと名前を付けて行った大会です。パラリンピック、障害者の皆さんには、まさに障害者スポーツに光が当たったのがあの日本の大会であります。
興奮したオランダの役員の人たちがヘーシンクに抱き付いてくるのを制して、敗者である神永選手に対して敬意を払ったあの瞬間というのは、私はずっと忘れることができなかったんです。そうしたことを子供たちにもやはり見てほしい。 さらに、当時、パラリンピックが、初めてパラリンピックと名前を付けて行った大会です。パラリンピック、障害者の皆さんには、まさに障害者スポーツに光が当たったのがあの日本の大会であります。
日本女子バレーがソビエトとの決勝戦で、最後、相手のオーバーネットで優勝を決めた瞬間とか、それと、初めて柔道が正式種目になったんですけれども、柔道無差別級で神永選手があの大男のアントン・ヘーシンクに押さえ込みで敗れるという、あの瞬間を忘れることができません。しっかりと今記憶に残っているわけであります。
神永選手がへーシンク選手に敗れましたけれども、あの後、へーシンク選手がとった態度、御存じの方もおられると思います。喜んで上がってこようとしたオランダの仲間を制しました。そして、きちんと礼を尽くした。 もう一つの例は、一九八四年のロサンゼルス・オリンピック、柔道無差別級。これは私が出場した大会でございます。私とラシュワン選手の戦い。
初めて自分の記憶に残っているオリンピックをたどってみると、やはり小学校一年生のときの東京オリンピックで、最後のマラソンで円谷幸吉選手が競技場に入ってからイギリスのヒートリーに抜かれたときの悔しさとか、柔道で神永選手がへーシンクに押さえ込まれた悔しさとか、金メダルもいっぱいとりましたけれども、残念なことばかり幼児体験では覚えています。
たまたま先ほど柔道の神永選手の修業時代のテレビを拝見しておったのですが、当時はお金がなくて食べるものもそう食べられなかった、奥さんが持参金を持ってきたはずだけれども、いつの間にかそれは料理に全部使われて、もうお金がありませんと言われたときに愕然とした、これは一種の清貧の中での美談とも申せますし、一方ではそのような不安があっていいのかなという感じもいたすわけでございます。